UP 2022.1.15 HRY
MNC山歩会 2022年1月例会
生駒 四条畷神社から飯盛山
 ◇ 日時:2022年(令和4年)1月10日(月・祝)、天気 晴れ
 ◇ 集合:10:00 JR四条畷駅
 ◇ 行先:飯盛山(314m)
 ◇ 参加者:MNC山歩会 17名(男9、女8)リーダー:平山
コースタイム
四条畷駅10:05~四条畷神社10:25/10:37~新道登山口10:40~御机神社分岐10:51~階段~尾根11:03~史蹟広場11:23~飯盛山山頂11:54(昼)12:28~楠公寺12:35/12:48~大東屋外活動センター桜池12:58~七曲13:16~登山口水場13:30~野崎城址13:40~野崎観音(慈眼寺)14:00/14:08~JR野崎駅14:25
  歩行 約8km 4.5時間 高低差(250m)
Route Map(GPS軌跡)

歴史と景観の河内飯盛山を歩きました。楠正行を祀る四条畷神社から戦国武将三好長慶が築き上げた飯盛城跡を歩き、人形浄瑠璃・野崎小唄で一世を風靡した野崎観音に下りました。稜線上からは眼下に京阪平野が、遠く大阪市街から京都まで一望でした、ただし、1500段以上にのぼる丸太階段にはいささか閉口しました。
本文
「四条畷神社から」
 2022年(令和4年)山歩会の初登山は河内飯盛山。四条畷駅に集合したのは男女17名といつもより多めです。コース説明の後、駅から四条畷神社に向かって真っすぐに伸びる参道を歩きます。楠公橋を渡ると正面に飯盛山の稜線が見えて来ます。標高が300m前後、稜線上には城郭があったわけですが、ちょっとした丘に見えるので楽勝気分です。神社山門の階段を上り境内に入ります。四条畷神社は明治期に建てられた神社で、南北朝は四条畷の戦いで敗れた楠正成の嫡男正行(まさつら)を祀っています。松の内なので、初詣客の姿がありました。飯盛山登山口は神社の南端にあります。

四条畷神社参道から飯盛山を望む

四条畷神社山門
「飯盛山城跡」
 登山口は旧道と新道に分かれていますが、旧道は法面崩落危険表示があるため新道へ進みます。階段が多いとは聞いていましたが、丸太階段が始まりました。メンバーの一人が段数を数え始めました。緩やかだった階段は御机神社分岐から急登になります。一直線の登り階段は段差が大きいのでコンパスの短い人は難渋します。踊り場もありません。よく見ると階段を避けるように横に踏跡が続いていますのでしんどいときはこちらを登ることにしました。これは森を荒らすことになるのでマナー違反です。最後に鎖つき階段を一気に登ると尾根に到着です。難所の階段を登り切りました。標高は215m、階段は600段を越えました。下りだったら膝を痛めそうです。背後に京阪平野が見えています。

難所の階段を登る

最後は鎖付き階段
 一服、息を整えます。ここからは短い階段を上り下りしながら高度を上げていきます。標高265mで飯盛山史蹟碑がある広場に到着です。「飯盛城拠りて長慶覇をきそう」と看板にある通り、1560年戦国武将三好長慶が飯盛城に居を定め、畿内に君臨しました。縄張図によると二の丸跡のようです。展望抜群で、西方270°の風景が展開します。快晴の空のもと、大阪市街から、京阪平野、京都まで一望です。中央に白く長く続くラインは第2京阪道路です。淡路、六甲、京都愛宕、比叡が見えるはずですが、天気が良すぎてカスミがかかっています。あべのハルカスは確認できました。

飯盛山史蹟碑広場(二の丸跡)

展望絶佳

大阪高層ビル群 中央の白い線は第2京阪道路
 ひとのぼりで飯盛山山頂です。階段を避けるように脇道がたくさんありますが、昔からあった登山道と思われます。山頂には展望台があります。ここで昼食と思いましたが休日とあって、多くのハイカーがベンチを占拠しています。やむなく一段高いところにある楠正行像の下で昼食としました。標高は314m、飯盛城跡の標柱があります。展望は周囲の立木が伸びていて思ったほどではありません。階段数は940段とのことで、神社の石段を合わせると1000段を越えます。

あと一息で山頂(堀切)

山頂展望台

山頂楠正行像下で集合写真

飯盛城跡(高櫓郭)
「野崎観音へ」
 山頂で集合写真撮影の後は野崎観音に向かって下山です。尾根上、南正面に見えるNHKFM送信所アンテナのある場所が千畳敷郭があったところでその先が虎口(こぐち)にあたります。そこを経由したかったのですが、スタートしてから、山にはトイレがありません。やむなく山頂から10分下ったところでトイレのある楠公寺へ寄ることにしました。楠公寺は馬場のあったところで四条畷の戦いで散った楠一族を祀ったお寺です。多くのハイカーで賑わう飯盛山なので、山頂の展望台にトイレがあってほしいと思います。楠公寺は最新のバイオトイレになっていました。車道をしばらく歩き、大東屋外活動センターの桜池から山道に入ります。野崎観音まで1.6.kmの道標がありました。池を巡り、山道を下っていきます。

楠公寺

大東野外活動センター 桜池
 再び階段が始まりますが、往路ほど長い階段はなく段差も小さいのでさほどしんどいことはありません。七曲りの坂道を下ると舗装路となり、廃屋を過ぎると水場があります。ここが野崎側からの登山口のようです。標高は120mです。

七曲りの階段を下る

野崎観音へ
 野崎観音(慈眼寺)へは途中左折し、谷川を渡って階段を登ることになります。直進は大東市街地です。野崎城址に立ち寄りました。4つの郭を持つ山城で、南北朝時代からあったようですが、後に飯盛城の出城になったと推定されています。110mの高台から大東市街が展望します。つり橋を渡って野崎観音に下りてきました。人形浄瑠璃のお染久松心中、野崎小唄で知られ、大阪から野崎参りの屋形船が通っていました。有名な割にはこじんまりしたお寺です。お染久松の墓にお参りする。

野崎城址

野崎観音(慈眼寺)

野崎まいりの屋形船で賑わったであろう水路(野崎駅前)
予定よりも早く野崎駅に到着しました。反省会をしたいところですが、新型コロナオミクロン株の急拡大のため早く帰宅することになりました。上り下り合わせて1500段を越える階段でしたが、健脚の皆さん全員無事に完歩できました。お疲れ様でした。
◇◇◇
「飯盛城跡と三好長慶」
飯盛城跡は、飯盛山の山頂に四條畷市と大東市にまたがって存在する中世の山城跡。その規模は南北約700メートル・東西約400メートルにわたり、西日本有数のものである。城内には、多くの曲輪や堀切・土橋といった場所が良好な状態で残っており「続日本100名城」「国の史跡」に指定されている。戦国時代に三好長慶(みよしながよし)が居城としたことで知られ、長慶は永禄3年(1560年)に芥川山城から拠点をこの城に移し、この城を拠点に五畿内(大和、山城、河内、摂津、和泉)と四国の一帯を統治し、室町幕府の政治を動かした。1564年に城中において42歳で没し、権力を担っていたのはわずか4年あまりだが、この城は政権が所在する『首都』といえるような場所で、織田信長に先駆ける天下人として評価されている。長慶は、城中で連歌の会を開催するなど文化人でもあり、またキリスト教布教を許可し多くの家臣が城中で洗礼を受けたことは、「河内キリシタン」が繁栄する契機となった。

飯盛城跡
「四条畷神社」
南朝の将として戦い、四條畷の戦いで敗死した楠木正行を主祭神としている。父の楠木正成が大楠公(だいなんこう)と呼ばれるのに対して、嫡男の楠木正行は小楠公(しょうなんこう)と呼ばれるが、地元四條畷市民や近接地に住む大東市民の間で単に「楠公さん」と言えば正行や四条畷神社を指す場合が多い。1975年(昭和50年)には「楠公」という町名まで誕生し、他にも周辺に楠公と付く地名が複数誕生している。境内やその周辺には桜が多く植えられており、春は多くの花見客でにぎわう。明治23年(1890年)創建、別格官幣社、正行ほか楠木一族の将士24柱を配祀している。
「野崎観音(慈眼寺)」
福聚山慈眼寺。野崎観音と親しまれる十一面観世音菩薩(平安中期)をご本尊とする曹洞宗の禅寺。行基菩薩によって約1300年前の天平勝宝年間に開山、古くから北河内(大東市・四条畷市・守口市・枚方市・寝屋川市・門真市・交野市・大阪市鶴見区)をはじめとする大阪の人々の信仰を多く集める。ご本尊は白檀の一木彫りで身の丈は約130㎝、一匹の龍が取り巻く台座の上に立つ。江戸時代より浄瑠璃や歌舞伎、落語の舞台としても数多く登場し、昭和初期に東海林太郎が「のざきまい~りは~、屋形船でまい~ろ♪」と歌われた『野崎小唄』で、広く全国に名を知られるようになる。大般若祈祷の『のざきの観音さん』として安産や子授かり、初まいり(宮まいり)や七五三、厄除け、新年の祈願など人生の節目での様々な御祈願を受けに多くのお参りがある。
文・写真・編集/平山
武庫ネイチャークラブ 山歩会

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